即物的簡潔主義者の悪文グルーヴ

都内で院生やってる男が吠えます。遠く吠えます。

【毒舌論①】有吉弘行の毒舌芸にみる理念性と共感性の融合

 有吉弘行といえばいまやテレビバラエティの顔ともいうべき人気芸人で、MCとかをやるようになってからは正直毒舌芸というより本音トーク&ゲラ笑いといった印象の方が強いのだが、再ブレイクしはじめた07~11あたりの毒舌はすごかった。

 今回は有吉の毒舌芸について昔大学で書いたレポートを晒す。2回目にして以前書いたのの焼き増しってどーなのという感じもなくはないが、晒したいから晒すのである。倫理学という授業でのレポートだった。

 その授業はたしか人間あるいはそれにより構成される社会が持つ三つの性質、理念性、共感性、身体性という用語をもちいて現代社会を分析する、というものだったとおもう。
 すなわち、理念性とは対象を客観的に分析し効率的なシステムを構築する能力、共感性とは対象と情緒的に一体となって文字通り「共感する」能力、身体性とは動物的本能に従い食や性に関して快楽を追求する性質、を意味する。
怠惰な学生のテンプレみたいな奴だった俺は数回出席して出るのをやめ、まさかの中間レポートを全力でスルーするという失態を犯したわけであったが、偶然、受講生の出したその中間レポートを教授が講評する回には出席した。そんで衝撃を受けるのである。
 中間レポートあったのかよ、というのもまあそうなのだが、講評を受けた(おそらく優秀な)レポートがぜんぜんおもんなかったからだ。それはおおむね以下のような内容であった。

 いわく、仕事一本の冷徹人間がなんやかんやのくだりがあって家族愛に気づく名作映画を取り上げて、これは理念性を称揚する現代社会に向けて警鐘を鳴らすすぐれて批評的な作品だ、と。あるいはリア充ぼっちみたいなネットスラングを挙げて、勉強はできるが人間関係の不得意な自分はもう一度共感性の価値を見直すべきなのかもしれない、と。
 授業に何度か出た印象とこれら中間レポートを読んだ感想からすると、たぶん授業の全体的な流れとしてはこんな感じだったのだろう。
 つまり、現代社会とは理念性を極端に重視し、理念性により構築された社会である。傾向的に理念性にすぐれた男性を中心とした資本主義社会なんてのはまさにそれで、経済的利益の効率的追求を極めた結果、その弊害はあちこちに出てきている。共感性による親密な人間関係の喪失。あるいは生存に必要な最低限度にまで抑圧され、酷使される身体性の存在。果たしてこれでよいのだろうか?

 よいのだろうか?と問われればそりゃもちろんよくないんである。共感性、身体性の価値を現代社会は再発見すべきだ、といわれればそりゃ全面的に賛成なのである。でもだからどーしたんですか? 理念性の肥大化を批判し、共感性、身体性に価値を見出すなんてこと、理念性肥大化人間はとっくに(得意の理念性を駆使して)やっていて、それが実践に至らず困っているのだから。
 おそらく今、一番抑圧されているのは共感性、身体性の人間ではなく、共感性、身体性再発見へのシフトに乗り遅れた理念性肥大化人間たちである。その彼らを拾いあげなくてどーするのだね。共感性が大事です、なんて今どきjポップでも言ってるような内容を単に大人な言葉に変換したところで面白くもなんともない。と、いうことをレポートに書いた上で、理念性肥大化人間のとるべき筋道を有吉の毒舌芸に照らして考察してみた。それが以下のレポートである。
 と、思ったが長くなったので次の記事へ。。。