即物的簡潔主義者の悪文グルーヴ

都内で院生やってる男が吠えます。遠く吠えます。

【教育論②】高学歴は「頭がいい」という事実

 

と、いうわけで教育論第二弾、といいたいところなのだが時間が経ちすぎて何書きたかったかだいぶ忘れた(どーん

 

 

いやゆとり教育の話である。ペーパーテスト的学力と社会的人格形成との関係について、おれの個人的な見解をいわせてもらえば学力テストが万能とはいわないが批判するならせめて対案を示せよってなところである。まさか客観的指標も持たず、印象だけで有能無能を決するつもりなんですかね?

 

ゆとり教育が失敗した原因だって結局は学力テストにかわる新たな能力指標を提示できなかったというその一点につきるだろう。

豊かな人間性とやらのご立派な理念を数値化できない時点で、ペーパーテスト的学力を有効な指標とみなす従来の人々から学力低下につき批判され、それになんら説得力ある反論を示せないのはいわば当然の帰結なのであった。

 

いまのところ、ペーパーテスト的学力は、その知識自体に意味があるわけでなくて、一定の時間内で一定の点数を取るための計画性、論理的思考能力、処理スピードなどを図る指標として有用である、みたいな反論がなされることが多いように思う。

ホントか?wと思わないでもないし、知識自体に意味があるわけではなく〜というところに逃げを感じるが、その点については後述する。

 

要はここで言いたいのは、代替案がないならペーパーテストをその指標にして重用するしかなかろ、というごくごくふつうの話だ。

学業優秀だが仕事はトンとできない、あるいは逆に学歴はないが有能、という人が一定数いるのであれば別に雇用市場の流動性を高めてミスマッチの悲劇を減らせばいい話で、だから授業時間を減らして豊かな人間性を育てましょう、どんな仕事にも対応できるスーパーマンをつくりましょう、というのはピントがズレてる上にどんだけ教育に過剰な期待寄せてんスカwと思うのである。

 

おれは教育学について専門的に学んだ人間ではないのであまり偉そうには言えないけれど、小学校から大学まで16年間(!)教育サービスを受ける側だった者の実感として、モラルやらコミュニケーションといった数値化困難な人間的価値について、教師や道徳の教科書から学んだことは一度もない。友だち同士での衝突やらなんやらで感覚的に身につけただけだ。それは他の連中も、おれより上の世代もみんなそうだったんじゃないかと思う。それをなんで今さら、自分たちオトナは学校教育によって子どもの人間的価値を恣意的に向上させられると思うのか?

 

 

いや、まあアイデンティティが形成される十代前半までは、その人格に学校教育が一定の影響力を及ぼしうるかもしれないが。

しかし仮にそうだとしても、来るべき理想社会像を夢想してそれを無知な子どもたちに叩き込んだところで、既存の社会と教育現場を乖離させるだけで有害無益、いざ生徒たちが実社会に出たときにいつまでも学生気分でいるな、社会は厳しいんだぞとかいう社畜御用達の言葉を降りかけられるだけなんじゃないのとおもうんである。

個性重視とかのたまって金子みすずを朗読させるのも結構だがみんな違ってみんないいけど需要と供給のバランスには重々お気を付けくださいくらい言ってやったらどうなのかね。

 

こういう言説の背景にはきっと教育による理想的人間の形成→理想的社会の実現!という仮想のプロセスがあるように思うのだが、これはもうまるっきり順番が逆で、教育現場なんて既存の社会に従属してこれに適合的な人間を生む機能としてしかそもそも期待されていない。

 

挑戦が大事です、と教育したところでチャレンジした後の失敗をフォローする制度が既存社会になければ敗残者を生むだけだろう。個性が大切です、といったところで既存社会の側に多様な価値観を受け入れる土壌がなければ社会不適合者が量産されるだけだろう。学歴重視の姿勢にいまだ変化がない既存社会の在り方を知る保護者たちが、削減された授業時間をお受験塾にあてて学力格差が広がった、というのもその現れにすぎないように思う。

 

じゃ、結局のとこ、教育はどうあるべきなのだろうか?

答えは至極簡単で、教育は、われわれオトナがいま運営してる社会とはこういうものです、とその知識・情報を子どもたちに徹底的に提供すべき役割を担うべきだろう。

無難にサラリーマンを目指すのもよし、起業したり芸能界を目指して一攫千金を狙うのもいいがどんなリスクを伴うのか、といった「仕事」に関する情報、あるいは普通に生きていても生じる人生のリスクなどなど。こういった諸々のリアルな情報を受け取った上で子どもたちがどういった判断をするか、というのはそれこそ自主性に委ねるしかない。

 

教師は社会人経験を積むべし、みたいな意見はそこそこ根強いみたいだが、これは別に社会人が教育者にふさわしい人格者だから、ということではなくて、端的に、既存社会の在り方について実感的な知識・情報を持っているから、という点によるだろう。おれもこの意見については賛成なのでした。

 

学力テストの科目についても同様のことがいえる。教育問題について議論が起きるときはだいたい学力か/人間性か、みたいな二項対立が生じるだけで科目内容の是非についてはあまり触れられないように感じるのだが、もっと実践的な内容を教えるようにカリキュラムを変えたほうがいい。

 

歴史なんて極端な話、戦中〜戦後からのを深く学ぶほうが大切だろうし、英語もグラマーに時間かけるよりリスニングとスピーキングに重点を置くべきで、他にも民法憲法の基礎の基礎部分、現代の企業社会がどう動いているかという経済的知識、簿記会計の知識を叩き込むべきで、その知識の浸透具合によって優劣をつけるべきだ。今学んでいることの先に実社会があるのだ、という感覚は、勉学への意欲も、進路選択に関する判断の精度も高めるだろうし、学校のクラスにある独特の閉鎖的な雰囲気をも打ち破るんじゃないか、とおれは勝手に想像している。

 

と、まあ、これも一種の理想論である。

おれと同じような教育観をもつ人間は結構いるだろうが現実に教育制度がかわるにはとうぶん時間がかかるだろう。

いつまでも学生気分でいるんじゃない、社会は厳しいんだぞ、というお決まりのフレーズを言われたときに教育が/社会が悪いんだと反論するのはナンセンスで、自分が(なんらかの原因で)社会不適合であると気付きながら、社会不適合者であり続けた究極の責任はその本人が負うしかないだろう。

だから教育なんぞに期待せず、既存の社会制度がどうなっているかを自分の目で見極めることである。就活でも結局は学歴が優先され、そのあとにコミュ力とやらが加点要素として加わるに過ぎないという現状を把握したなら、学校の勉強がクソでもドライに割り切ってその点取りゲームに参加するのが「賢い」だろう。

多少おーげさかつ捻くれたな言い方になるかもしれないが、社会制度の在り方をドライに捉えた上で、目的に向けて割り切った努力ができる、という意味でやはり学歴は大事なんじゃないかね。

というわけで、特定の分野に向けた特別な熱意や才能がない限り、とりあえずは黙って勉強しとけば、という世の教育ママと同じ意見に落ち着くおれなのであった。おしまい。

 

勉強がしたくてたまらなくなる本

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学歴無用論 (朝日文庫)

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