即物的簡潔主義者の悪文グルーヴ

都内で院生やってる男が吠えます。遠く吠えます。

【ニッポンのサヨク論①】人権屋が右傾化を促進する

 

とまあ随分と政治的なタイトルをつけてみたわけだが。

おれは政治にぜんぜん興味がない。
人間関係の力学、みたいな広い意味での政治には関心あるもののいわゆる「政治」、国会議事堂のなかで行われている法案と政策決定にはトンと興味が湧かない、どころか政治ってもしやよっぽど徳の高い人間以外は目立ちたがり暇人疎外された人しか関わりたがらないんじゃないのとすら思っている次第である。

そこそこコミュニティに馴染んでて、日常を忙しく過ごし、有名になりたいみたいな強烈な承認欲求を持たない(要はフツーの)人間が政治を語るのってあんま想像できない。特に若者ね。人生は35までにだいたい決まるなんてのはよく聞くが、これはたぶん仕事や家庭がだいたいこのへんで安定しはじめるということだろう。

早い話がそういう一般的な成功観、幸福観からすれば仮に今自分の人生の見通しが暗くても政治による社会の変化に期待するのはあまりにも遠回りということであろう。

これはおれがそう考えてる、というだけではなくておれと同世代の連中みんなそんな雰囲気が漂っている。

 要するにいわゆる「政治」を国家という共同体と個人の関係性の問題として捉えるなら、自分の人生を自分らしく生きるための最低限度の基盤となる権利(平等、表現、経済活動など、いわゆる人権というやつだ)が国家によって不当に制約されているという実感が持てなければ、関心はその先、つまり最低限の生存基盤に立った上でどう豊かに、より幸福に生きるかというところに向かう。典型的な答えはだ。

 

愛と金のなさを社会のせいにするのは考え方としていかにもナンセンスで、自分の人生に不安を感じる若者は、(学生運動やデモなど)社会に牙を剥くのではなく、自分の内面に目を向けて愛と金を手に入れられるような人に生まれ変わろうとする。

で、自己啓発本を読む。ボランティアと海外経験とリーダーシップを懸命に絞り出してアピールする。意識高い系になる。そこにあるのは「叫んだって社会は変わらない」という諦念と「わざわざ叫ぶほどの国家に対する不満はない」という薄ぼんやりした感情だ。

(なお、日本人は云々、、、という「世間」の在り方への不満はたびたび耳にするが、「世間」は「国家」と異なり制度としての明確なカタチを持っていない不定形なモノだから、これに対する不満の叫びはますます不毛な色合いを帯びる。たとえるなら虫の大群にパンチやキックを繰り出すようなもので、ほとんどシャドーボクシングと変わらないことになる)

と、まるで現代の若者の代表であるかのように語ってしまったわけですが、平均値からはだいぶズレてるおれはかつて大学時代反権力、反骨精神みたいなもんに憧れていた。そういう活動に従事していたとかではなくほんとに漠然とした志向みたいなものだ。それでそういう集会に一度だけ参加した。詳しい内容は避けるが、とある社会的権力者がとあるジャーナリストの表現の自由を不当に制約している旨訴えるものだった。
主張の内容自体はごく全う、アメリカではとっくにそういった不当な行為に対する規制がなされてるのに日本ではその法整備が遅れているというもので、共感を覚えたから参加した。どんなもんだろ、ということで友人を誘っていったのだった。

いやあ。ドン引きしたよね。何がって、それを支援しようと集まった市民団体?ふだん何やってるのかもよくわからんいい歳したおっさんおばさんたちに、だ。
唐突に憲法12条を大声で読み上げる。刑事訴訟法上の告発の条文を憲法に記載すべし、とのたまい⚪︎⚪︎を告発しましょう!おお!なんてやってる。告発の条文探す前に刑法の何条に該当すんのか説明せえよ。なんなんだこれは。文化祭か?

ああ、こいつら反権力やってる自分らに酔って脳内で巨悪を作り上げ、それと戦うヒーローになりたいだけで、べつに勉強する気とかはないんだろうな、とわかってさあっと冷めた。その脳内ヴォルデモートと一生魔法の国で戦いを繰り広げてて下さいな。独りよがりで軟弱な君らの権力批判が現実を動かすことは永遠にないでしょう。

まあ一部のアホを取り上げて反体制的な思想を持つ人々をまとめて斬るのは公平ではないだろう。しかし、ですね。ネットでもよく取り上げて叩かれてるが、もうなんか全体的にほんとにひどいのだこれが笑。少しかじった程度のおれが呆れかえるくらいにはひどい。

どうひどいのか。というのは長くなるので次回語る。

 

 

優しいサヨクのための嬉遊曲 (新潮文庫)

優しいサヨクのための嬉遊曲 (新潮文庫)