道徳警察によるネットリンチの執行は、社会的に正当化されうるか?
おれはモラルやら常識という名の棍棒で殴られるのが嫌いである。相手からおれに対するクレームに「モラル」やら「社会常識」による正当化の匂いを感じた途端に聞く価値なしとして心をクローズする。そんな言説は唾棄すべきゴミである。クレームつけるならテメエに及びうる具体的不利益を説明し、提示せよ、勝手に公共の利益を代表してんじゃねえ、というのが紛れもない本音である。テメエの説得能力の欠落を同調圧力で補充しようとする卑怯者が、道徳警察の正体である。
さて、小山田圭吾が炎上している。
不道徳・不謹慎な言動によりネットが炎上する事件はこれまでもあり、炎上理由には共感できたり、できなかったりはあるものの、基本的にはアンチ道徳警察の矜持として我関せずの態度を貫いてきたが、コトがオリンピックという国際的舞台なこともあってか、はたまた小山田氏の過去の言動が不道徳の領域を軽く超えてきたこともあってか、これまで以上に、議論が白熱し、そして、今回はいつもに増して、道徳警察の勢いが優勢なようだ。そこで、改めて、このモラルというものを理由にしたリンチの執行に、どこまでの正当性があるのか、ということを以下に考察していくことにする。
当然のことだが、社会が存続するためには秩序が必要であり、秩序を維持するためには、秩序違反に対するペナルティが必要となる。ペナルティがなければどうなるか。当然、各自が自分勝手に自己利益を追求することとなり、やがて秩序が崩壊する。だから、秩序に違反する人間がいた場合、きちんとペナルティを課し、全員で秩序を守りましょう。これは誰でもわかるシンプルなお話であり、もはや論理というより、社会的動物としての本能に近い。
ところが、である。そもそも、なにをもって最適な秩序とし、なにをもって守るべき道徳とするのだろうか?あるいは、秩序に反した者に対し、どの程度のペナルティを与えるべきなのだろうか?という問いに直面した途端、事態は唐突に複雑化する。
そこに明確かつ一律の答えがあるはずもない。各々の道徳観や処罰感情に従って違反者を処罰化した結果、どうなるか。もっとも苛烈な処罰感情を持つのは当然、直接の被害者であり、被害者感情に共鳴した大衆により、処罰は過激化の一途へ向かう。秩序や処罰に対する明確なルールがないのだから、十分な検証もなく無実の者が罪を着せられたり、秩序維持の名を借りた報復合戦が発生したり、軽い過失に対して過剰な処罰がなされることになる。人々は萎縮し、猜疑心に苛まれ、恐怖に支配される。秩序維持に熱心な「正義の者」が、過剰な処罰を声高に叫び、秩序を破壊する。
これを避けるために生まれたのが、罪と罰についてのルールを明確に言語化し、事実認定とルールの解釈適用の権限を国家に委ね、国家がこれを濫用しないよう憲法でコントロールする社会、だ(罪刑法定主義)。
コンニチの社会はこうやって歴史的に様々な血を流し、試行錯誤の果てに出来上がってるわけである。
なので、現に裁判中の暴走老人こと飯塚幸三、性格の悪い(演出のなされた)芸能人こと木村花、自粛要請を破って飲み会に参加したYouTuberことえびすじゃっぷ、不倫発覚した好感度タレントこと渡部?に対し、正義のために、我々が制裁を加えてやる!とリンチの正当性を叫ぶことが端的に間違いであることは、歴史と現代社会の制度によりとっくに証明されており、もはや議論の余地がない。もう一度いうが、とっくに議論のフェーズを終えており、正否を争う余地が全然無い。鼻クソほじるレベルのつまんねえ議論である。
つまんねえ議論ではある、が、しかし、こうした社会制度を確立するまでに長い歴史を要したのも事実なわけで、その制度理念を学習する脳ミソがなければ、もちろん、秩序に違反した者を秩序維持のために処罰せよ、という原始的な感覚に支配されるのはごくごく自然な現象である。
道徳警察たち本人はもしかすると、社会意識の高いオトナとして、自分勝手なコドモを叱っている感覚なのかもしれないが、こちらとしては棍棒持った原始人が街をウロウロしててコワイなあ、というのが率直な感想であり、この原始人からどう自己防衛するのが個人としての最適戦略なんだろう、と考えるのが思考の方向として最も合理的である。
さて、小山田圭吾の炎上についてである(本日二度目)。小山田圭吾についてはコトはそう単純ではない。小山田氏が行った行為が、(仮に彼の自白が真実であれば、)議論の余地なく明確に暴行・傷害という違法行為だからである。
何故なのかは全くわからないのだが、学校内で発生した暴行、脅迫、恐喝、器物損壊事件は何故か矮小化され、イジメ、カツアゲという独自用語に変換されるが、殴り、金をせびり、モノを隠したり壊したりすればそれは紛れもない犯罪である。教室内で自治的に解決される問題ではなく、司法によって処罰され、賠償金を払い、責任を取らせるべき行為であり、小山田氏の過去の傷害行為が正当なプロセスによって制裁されなかったのは、社会制度の機能不全に他ならない。
雑誌当時のカルチャーとか、数十年の間に真摯な謝罪が行われなかったとかナントカ、そんなことは、この問題に比べれば、マジで、クソほどどうでもいい。
なぜ、学校内での犯罪行為は隠蔽され、治外法権のように扱われるのか、そして、そのような現状があるとして、法の執行の不備・社会の機能不全を補充するためにリンチを執行することは、正当化されるのか?
問題はまさにここである。
ここに関して、おれの中でまだ明確な回答はないが、ぶっちゃけた話、法の不備は小山田氏の責任ではなく、今更になって(通常なら時効が成立する今になって)責任の追及を受けるのはおかしいようにも思われる(また、悪ぶってただけで、そんな行為はしてないんじゃないか、、という可能性も一部残る)。
が、こと今回の件に関しては、私刑による機能不全の補充は、条件付きで、(結論的には、偶然、)許容される範囲内ではないか、とおれは思っている。
法は、当たり前だが、万能ではない。万能ではないどころか、不備が散見され、社会情勢に応じた柔軟な変更が苦手であり、解釈でその柔軟さを補うにも限界がある。その不備ゆえにペナルティを免れた人間に対し、一定の限度で法の外で私刑を与えることは、法の明白な機能不全を是正する契機や問題提起を与えるという限りにおいて、許容されるのではないか。
しかも、彼に与えられたペナルティは、オリンピックという公的な舞台に立つことを辞退することだけであり、いわば、現状から前に進もうとするのを阻まれただけである。
今後の音楽配信を停止されたり、ライブ活動の場を剥奪されたわけではなく、今後も音楽活動自体は継続できるのだから、過去の犯罪行為の違法性レベルに比して、過剰なペナルティが課されたとまではいえない、というのがおれの道徳的価値判断である。
もっとも、おれは道徳警察的な人間を全く信用していないので、これによってキャンセルカルチャー的な空気が一層促進されることをめちゃくちゃ警戒している。
まさか音楽活動も自粛しろとか言い出さねえだろうなとは思っており、そうなれば(心の中で)全力で抵抗する。
コーネリアスとか、今回の件で久々に名前聞いてYou Tubeで検索したけど、音楽はまあ、天才のソレですよ。
ま、そういうわけで、今回限りは、パラリンピック辞任という文脈限り、アンチ道徳警察のおれも取締を許容するしかねえかってことですね。ケッ
【教育論②】高学歴は「頭がいい」という事実
と、いうわけで教育論第二弾、といいたいところなのだが時間が経ちすぎて何書きたかったかだいぶ忘れた(どーん
いやゆとり教育の話である。ペーパーテスト的学力と社会的人格形成との関係について、おれの個人的な見解をいわせてもらえば学力テストが万能とはいわないが批判するならせめて対案を示せよってなところである。まさか客観的指標も持たず、印象だけで有能無能を決するつもりなんですかね?
ゆとり教育が失敗した原因だって結局は学力テストにかわる新たな能力指標を提示できなかったというその一点につきるだろう。
豊かな人間性とやらのご立派な理念を数値化できない時点で、ペーパーテスト的学力を有効な指標とみなす従来の人々から学力低下につき批判され、それになんら説得力ある反論を示せないのはいわば当然の帰結なのであった。
いまのところ、ペーパーテスト的学力は、その知識自体に意味があるわけでなくて、一定の時間内で一定の点数を取るための計画性、論理的思考能力、処理スピードなどを図る指標として有用である、みたいな反論がなされることが多いように思う。
ホントか?wと思わないでもないし、知識自体に意味があるわけではなく〜というところに逃げを感じるが、その点については後述する。
要はここで言いたいのは、代替案がないならペーパーテストをその指標にして重用するしかなかろ、というごくごくふつうの話だ。
学業優秀だが仕事はトンとできない、あるいは逆に学歴はないが有能、という人が一定数いるのであれば別に雇用市場の流動性を高めてミスマッチの悲劇を減らせばいい話で、だから授業時間を減らして豊かな人間性を育てましょう、どんな仕事にも対応できるスーパーマンをつくりましょう、というのはピントがズレてる上にどんだけ教育に過剰な期待寄せてんスカwと思うのである。
おれは教育学について専門的に学んだ人間ではないのであまり偉そうには言えないけれど、小学校から大学まで16年間(!)教育サービスを受ける側だった者の実感として、モラルやらコミュニケーションといった数値化困難な人間的価値について、教師や道徳の教科書から学んだことは一度もない。友だち同士での衝突やらなんやらで感覚的に身につけただけだ。それは他の連中も、おれより上の世代もみんなそうだったんじゃないかと思う。それをなんで今さら、自分たちオトナは学校教育によって子どもの人間的価値を恣意的に向上させられると思うのか?
いや、まあアイデンティティが形成される十代前半までは、その人格に学校教育が一定の影響力を及ぼしうるかもしれないが。
しかし仮にそうだとしても、来るべき理想社会像を夢想してそれを無知な子どもたちに叩き込んだところで、既存の社会と教育現場を乖離させるだけで有害無益、いざ生徒たちが実社会に出たときにいつまでも学生気分でいるな、社会は厳しいんだぞとかいう社畜御用達の言葉を降りかけられるだけなんじゃないのとおもうんである。
個性重視とかのたまって金子みすずを朗読させるのも結構だがみんな違ってみんないいけど需要と供給のバランスには重々お気を付けくださいくらい言ってやったらどうなのかね。
こういう言説の背景にはきっと教育による理想的人間の形成→理想的社会の実現!という仮想のプロセスがあるように思うのだが、これはもうまるっきり順番が逆で、教育現場なんて既存の社会に従属してこれに適合的な人間を生む機能としてしかそもそも期待されていない。
挑戦が大事です、と教育したところでチャレンジした後の失敗をフォローする制度が既存社会になければ敗残者を生むだけだろう。個性が大切です、といったところで既存社会の側に多様な価値観を受け入れる土壌がなければ社会不適合者が量産されるだけだろう。学歴重視の姿勢にいまだ変化がない既存社会の在り方を知る保護者たちが、削減された授業時間をお受験塾にあてて学力格差が広がった、というのもその現れにすぎないように思う。
じゃ、結局のとこ、教育はどうあるべきなのだろうか?
答えは至極簡単で、教育は、われわれオトナがいま運営してる社会とはこういうものです、とその知識・情報を子どもたちに徹底的に提供すべき役割を担うべきだろう。
無難にサラリーマンを目指すのもよし、起業したり芸能界を目指して一攫千金を狙うのもいいがどんなリスクを伴うのか、といった「仕事」に関する情報、あるいは普通に生きていても生じる人生のリスクなどなど。こういった諸々のリアルな情報を受け取った上で子どもたちがどういった判断をするか、というのはそれこそ自主性に委ねるしかない。
教師は社会人経験を積むべし、みたいな意見はそこそこ根強いみたいだが、これは別に社会人が教育者にふさわしい人格者だから、ということではなくて、端的に、既存社会の在り方について実感的な知識・情報を持っているから、という点によるだろう。おれもこの意見については賛成なのでした。
学力テストの科目についても同様のことがいえる。教育問題について議論が起きるときはだいたい学力か/人間性か、みたいな二項対立が生じるだけで科目内容の是非についてはあまり触れられないように感じるのだが、もっと実践的な内容を教えるようにカリキュラムを変えたほうがいい。
歴史なんて極端な話、戦中〜戦後からのを深く学ぶほうが大切だろうし、英語もグラマーに時間かけるよりリスニングとスピーキングに重点を置くべきで、他にも民法や憲法の基礎の基礎部分、現代の企業社会がどう動いているかという経済的知識、簿記会計の知識を叩き込むべきで、その知識の浸透具合によって優劣をつけるべきだ。今学んでいることの先に実社会があるのだ、という感覚は、勉学への意欲も、進路選択に関する判断の精度も高めるだろうし、学校のクラスにある独特の閉鎖的な雰囲気をも打ち破るんじゃないか、とおれは勝手に想像している。
と、まあ、これも一種の理想論である。
おれと同じような教育観をもつ人間は結構いるだろうが現実に教育制度がかわるにはとうぶん時間がかかるだろう。
いつまでも学生気分でいるんじゃない、社会は厳しいんだぞ、というお決まりのフレーズを言われたときに教育が/社会が悪いんだと反論するのはナンセンスで、自分が(なんらかの原因で)社会不適合であると気付きながら、社会不適合者であり続けた究極の責任はその本人が負うしかないだろう。
だから教育なんぞに期待せず、既存の社会制度がどうなっているかを自分の目で見極めることである。就活でも結局は学歴が優先され、そのあとにコミュ力とやらが加点要素として加わるに過ぎないという現状を把握したなら、学校の勉強がクソでもドライに割り切ってその点取りゲームに参加するのが「賢い」だろう。
多少おーげさかつ捻くれたな言い方になるかもしれないが、社会制度の在り方をドライに捉えた上で、目的に向けて割り切った努力ができる、という意味でやはり学歴は大事なんじゃないかね。
というわけで、特定の分野に向けた特別な熱意や才能がない限り、とりあえずは黙って勉強しとけば、という世の教育ママと同じ意見に落ち着くおれなのであった。おしまい。
【教育論①】高学歴は「頭がいい」という事実
挑発的タイトルですがふつうなことしかいいません。
頭がいい、とはなんだろうか?
答えは簡単で、文字通り「良い」「頭」
この、その領域において、という留保が大切だ。つまり「
ゆえに「高学歴」は(学業の分野において)「頭がいい」。
ちがいますかね?
単なる言葉遊びみたいになってしまいましたが。
高学歴だからって頭がいいとは限らない!!
おれは東大とかじゃないがまぁ世間的にはイイとされる大学を出て
こういう言葉が盛んに叫ばれる背景には、やはり「高学歴」が(
学業に限らず絶対的な「頭の良さ」、つまりいかなる領域でも最善の結果を生み出せるスーパーマンなんているわけなくて、それはコミュ力強者とされるリア充だって別に変わらないんじゃないのとおれは思うのだが、どーも社会とか世間は適材適所というのを認めたがらず、「頭の良さ」をあらわす絶対的指標がほしいらしい。で、包括しようしすぎた挙句に人間力wとかいいだす始末である。 なんだよ人間力ってw これは「
さて、
・学力テストはしょせん知識の詰め込みにすぎず、
・学力テストの対策には膨大な時間がかかる。
まあツッコミだせばキリはないわけだが、
そもそも今のゆとり教育というのはこうした知識詰め込み型教育に
だってそうでしょう。ゆとり世代は主体性がない、と批判され、
結局どっちなんだい?
と、いうわけで、
【ニッポンのサヨク論②】人権屋が右傾化を促進する
いきなりすこし硬い話に入る。
といっても別に高校の公民で習う程度の話だが、
これを回避するためには自由=
ところが権力は腐敗する。
と、
たとえるならそれは右と左で綱引きしているようなもので、
というのも、
おれは正直あんまり日本人は云々〜、日本は云々〜
だからどうしても愛国心=お上を肯定すること、となってしまう。
これはいわゆるネトウヨをみてても顕著なわけだが、
政府なんてただ共同体の運営をその手腕に期待して依頼されてる人
こういう傾向のある社会で人権を守り権力の行き過ぎを監視するに
んで話をサヨクな人権屋に戻す。なんていうかもうアレである。
憲法12条朗読や9条をノーベル賞に、
サヨク「この人権が目に入ら、、、ない!?ぐ、
人権はべつにふつうに制約される。
・その権利が憲法上保障されてる
・どのくらい強く保障されるのか/
逆にいえば人権てのはそれを制約する際に緻密な正当化論理が要求
愛と金を求めてふつうに生きるひとびとがこれを知らないのはべつ
さらにいえばこういう粗雑な権力批判はむしろ彼らの意図と真逆の
これから日本がどういう方向に進むのか、
自分たちの主張の通らなさを安倍ブラック政権とこれに洗脳される
【ニッポンのサヨク論①】人権屋が右傾化を促進する
とまあ随分と政治的なタイトルをつけてみたわけだが。
おれは政治にぜんぜん興味がない。
人間関係の力学、
そこそこコミュニティに馴染んでて、日常を忙しく過ごし、
早い話がそういう一般的な成功観、
これはおれがそう考えてる、
要するにいわゆる「政治」
で、
(なお、日本人は云々、、、
と、
主張の内容自体はごく全う、
いやあ。ドン引きしたよね。何がって、
唐突に憲法12条を大声で読み上げる。
ああ、
まあ一部のアホを取り上げて反体制的な思想を持つ人々をまとめて
どうひどいのか。というのは長くなるので次回語る。
【毒舌論⑤】毒舌的コミュニケーションの作法
ようやく本題。
昨今、有吉をはじめとしてマツコデラックス、坂上忍、
で、そうした真似っこたちはどうなのかというと、
まあそんなのはある意味当然で、前回も書いたが、
が、そうはいっても、である。毒、吐きたいじゃない? 言いたいこといって、気持ちよくなりたいじゃない? それで笑いまでとれちゃったら、これ最高じゃない? とおれなんかは思うわけだが、
そこで毒舌を笑いにつなげるために気をつけるべきポイントを以下
①周囲の反応を事前に確認せよ。
笑いは文脈に依存する。いつなんどき誰にとっても面白い発言など存在しない。ましてや毒舌なんて、
②人を傷つける言葉をいってはならない、
本当は言うべきじゃないけど、さすがにこれは言わせてくれ、
自称毒舌の人間がすこぶるつまらないだけでなく不快なのはおそら
③バランス感覚を磨け。
これは有吉自身がいってるように、
まあバランスの取り方というのはほんとにいろいろあって、
一番大切なのは、難しいが、
④言語的センスを磨け。
これはまあ言わずもがなか。みんなが(実は)思ってること、
まあこんなもんか。
日本社会はホンネとタテマエが大切で、
もっとコミュニケーションはいいたいことをいう、
結局、そうした人間は本音が接続される社会的な場を探す努力、
程度問題はあれ、世間が要求するタテマエ、耳に心地のいい言葉と本音が完全に一致する人間はいないだろう
だから、本音をさらけ出せばいい。
というわけで、おれが言いたかったのは結局こういうことである。
コミュ障たちよ、ひきこもるな。迎合するな。
まあおれも実践しきれてないけどね。自戒を込めて。
お前なんかもう死んでいる プロ一発屋に学ぶ「生き残りの法則50」 (双葉文庫)
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【毒舌論④】有吉弘行の毒舌芸にみる理念性と共感性の融合
そろそろまとめ入ります。いきなりこんな大長編になるとは。。笑
ビートたけしや爆笑問題太田のような従来型の毒舌芸人と、
たとえばビートたけし。彼の芸風は、徹底して世間、
こうした従来型の毒舌芸人の特徴、それは自らの存在を徹底して「
語弊を覚悟していうが、その姿は毒舌論②で書いた「ひきこもり」
たぶん社会不適応を起こしている多くの理念性肥大化人間は、
では有吉はどうか。
「好感度のために笑顔をつくる」「ADに媚びる」
どちらのスタイルがいい、とここで言うことはできない。たぶん「
共感性の観点からこれを語るなら、
もっとも、これは芸能界という特殊な世界での成功例であり、
すなわち、毒舌を吐かれる側のタレントも、
では我々一般人が一般社会で理念性を駆使し、
それを最後に書いてみる。つづく。