即物的簡潔主義者の悪文グルーヴ

都内で院生やってる男が吠えます。遠く吠えます。

【毒舌論②】有吉弘行の毒舌芸にみる理念性と共感性の融合

   ぺたっとな。
と貼って終わろうとしたんだが、やはりブログの文体とレポートのそれは醸す雰囲気がだいぶ違うので、ブログ用に改めて書き直すことにした。それがこれ。↓


   ここ数年急激にもてはやされるようになった言葉にコミュニケーション能力、というものがある。

  就活で成功するには?社会人として活躍するには?という学生の問いに対する答えとしてはもはや定番の回答となりつつあって、こういう漠とした新しい言葉を持ち出して何か言い終えた気になってる連中に果たしてその「コミュニケーション能力」とやらがホントに備わっているのかおれには甚だ疑問なわけである、が、まあそんな皮肉はさておいて、一応いろんなひとにその意義を問うたところどうやらふたつの性質が見えてきた。


  ひとつは、相手の伝えんとすることを受け取った上で、それに対する自分の意見、意思を的確に伝達する能力。もうひとつは、相手の伝えんとすることに対し共感し、人間関係を円滑化する能力。
  これはまさしく前回紹介した理念性と共感性という概念、この両要素を併せ持つものだといえるだろう。結局、ここ数年でコミュニケーション能力という言葉が急激にもてはやされだしたのも、理性万能主義に対する反動、反省として共感性が発見されたことのひとつの現れとして解釈できるように思えるのだが、みなさんも経験的におわかりのように、この両要素はときに激しく対立する。
  この対立は個々人の価値観が絡む場面でより顕在化するだろう。そのときに円滑化と意思の伝達、どっちを優先すべきかという問いに、両要素を包含するこの新しい言葉はなんら答えを提示しないのである。


  まあ好意的に解釈すればおそらく摩擦を生じさせずに最大限自己の意思を伝達する能力、ということもできるだろうが、みんなここまでめんどくさく考えないだろうし、おまけに今思いついたけど人脈構築能力みたいなものまで含んでいるように思われるから、結局なんのこっちゃか全然わかりません。
  あげく、このコミュニケーション能力という言葉だけが独り歩きした結果として(少なくともネット界隈では)極々浅~いレベルでのおしゃべり馴れ合い能力、というふうに読み替えられた感があります。端的にいえば共感性の勝利である。


  理念性は敗北した。勉強できるのと頭がいいのは別物だよ、などというもっともらしい言論と、コミュニケーション強者=リア充への羨望と賞賛によって、(伝達能力という意味合いでの)コミュニケーションに長けたはずの理念性人は、コミュニケーション弱者、ひいては社会的弱者のレッテルを貼られはじめたのである。
さて、弱者となった理念性人はどこへ向かうのでしょうか。共感性に乏しい彼らの向かう先は次の二つである。


  ひとつ。浅~いレベルで無理やり共感性を身につけようとして、愛想笑いの塊と化しひたすら世間様に従属する。ふたつ。同調を迫る(と、そいつが感じる)世間に背中を向けて、あるべき理想の世界を理念性でもって構築し、ひきこもる。
  キョロ充、ぼっち、というネット上でしばしば目撃される罵り合いは、おそらく共感性不全という点で共通する彼らが起した極めて低レベルな争いである。


  前回の繰り返しになるが、こういう彼らに君たち共感性を大切にしなさい、といったところでどーしょうもないのである。彼らは日々共感性人たるリア充への羨望とそうなれない自己への呪詛で苦しんでいるのだから。ただでさえ共感性人はパッと見楽しそうなのに、その彼らが社会的にも優遇されるなんつー言説が垂れ流されたら、そら堪りませんよ(切実。

  そこで俺は考えたのである。対象を分析し、適切に言語化する理念性を逆手にとって共感を呼び、ただ従属するのでもひきこもるのでもない場所に個を打ち立てることはできないのかね。つまりはそれが毒舌芸であった。理念性と共感性の新しい融合の仕方としての毒舌芸。それを有吉弘行のトークを通して以下みてゆく。


とおもったんだが、長え。また次。つづく。