即物的簡潔主義者の悪文グルーヴ

都内で院生やってる男が吠えます。遠く吠えます。

【毒舌論③】有吉弘行の毒舌芸にみる理念性と共感性の融合

つづき。

有吉弘行といえばみなさんご存知のとおり、猿岩石で一世を風靡したのち長らく不遇の時代を過ごし、やがてあだ名芸で復活、さらにこれを毒舌芸にまで昇華させて成功した芸人である。
毒舌芸人として一番脂が乗っていたころの発言をすこしだけ引用しよう。

  有吉は、先輩芸人であるダウンタウン松本に対し「不潔感がある」と言ってのけ(リーンカーン『説教先生』)、自分はAKBなら絶対一位だと豪語するモーニング娘道重さゆみに向かって「無理だ、流行りの顔じゃない」と切り捨て(ロンドンハーツ『格付けしあう女たち』)、彼の批評に対し反駁するJOYに対し「それが番組の盛り上げ方だと思ったら大間違いだから」と一蹴する(ロンドンハーツ『有吉先生のタレント進路相談』)。

   毒舌はタレントに対する辛辣な批評にとどまらない。売れない若手に一発屋にならないための教訓をレクチャーする『有吉ゼミナール』において「今は何でもクイズクイズ、クイズやってりゃいいのが今の芸能界ですよ、勉強してりゃテレビ出れるっておかしいだろ」「ADはタイの王様みたいなものだ、芸人なんて最下層の人間なんだから、売れたいなら逆らうな」、内村さま~ず『本当は有吉のように毒を吐きたい男たち』において、「毒を吐いた後、笑顔作っておけば視聴者は勝手に実はイイ人って思ってくれる」「好感度がほしい」と臆面もなく言い放つ。

   有吉を嫌う一部の視聴者は、彼のこうした芸風を「ただの悪口だ」「芸にまで昇華されてない」として非難する。このような批判が起きるのも、実は一面理解できないではない。
   いわゆるお笑いを冗談、ユーモアと同一視するのであれば、彼の上記の発言など本音そのままをストレートに出しているだけであって、そこに遊びや独創性はないようにもみえるのである。
  では、なぜこのような発言がお笑いとして成立し、多くの若者から賞賛を受けたのか?

   それは、有吉の毒舌には対象への愛があるから、とかいう理由では全くない。毒舌が笑いとして成立する理由を考えるには、そもそも笑いとはどういうときに発生するのか、その仕組みを分解して考える必要があるだろう。

   人はどのような場面で笑うのか?
   よく言われるのは、緊張と緩和の理論である。これをこのブログでの言葉に引き直して以下考察してみよう。
    ひとは、社会的生活を営む上で実は様々な目に見えない=言語化されないルールに縛られて生きている。それは高級レストランのお食事マナーから、公の場所でおチンチンを出してはいけないというレベルのものまで、共有のされ方や違反に対する制裁(非難)の程度まで様々であるが、他者と共生するうえでの不文律としてそれこそ無限のルールが存在することは誰も否定しないだろう。

   この社会生活上の不文律が笑いの源泉となる。まず考えられるのは、この不文律から外れた異端児の異端さを指摘し、不文律の共有を確認する笑いだろう(異端発見による緊張→緩和)。小難しい言い方になったが、漫才の構成なんていうのはほとんどこれである。常識的な反応を示さないボケに対し、常識を共有するツッコミが突っ込む。常識からの逸脱と回帰を反復することで無意識に共有されていた常識を顕在化するのである。
   しかし社会生活上の不文律から生じる笑いはこれだけではないだろう。不文律は、その時/その場の秩序を維持するための一応の正しさを保障するが、普遍的/絶対的な正しさを意味しない。時代や場所、場面の変化によってルールや制度は形骸化するのである。形骸化した不文律が残るとき、これに対するひとびとの違和感が蔓延する。笑いは、こうした不文律を打ち破り、その不恰好さを的確に言語化し、違和感を共有することによっても生まれるだろう(不文律による緊張→緩和)。

   もちろん、笑いというのは呆れ笑いから皮肉な笑いまで多種多様なものだから、このような理論ですべてを説明できるわけではない。あらゆる笑いのメカニズムを説明するのは能力的にも労力的にもおれの限界を超えるので、この記事のテーマである毒舌芸による笑いの形に照準を絞る。

   さて、社会的不文律とのズレを意識して笑いを発生させる場合、そこに必要なのは、社会的ルールと対象との距離を的確に把握し、これを言語化する能力、すなわち理念性である。対象に同調し、情緒的に一体化する共感性の作用によっては、笑いの源泉となるこの距離感を上手にすくいあげることはできないだろう。
   もっとも、どんなに芸達者であっても、観客の反応に芸の質が影響されることを認めざるをえないように、他の客が笑うから一層笑えてくる、その笑い声に反応してますます芸が冴え渡る、というような共感性の作用、すなわち周囲の情緒的反応に笑いが大きく依存する側面も無視できない。
   そうすると、結局、笑いをとりにいくという行為それ自体が共感性と理念性を高度に融合したものということができる。
   ここでもう一度有吉の毒舌芸を振り返ろう。
   たとえば松本人志に対する暴言。松本人志といえば日本のお笑いを開拓したといわれる大天才である。他人、とりわけ年上に失礼なことを言ってはならないというルールに、さらに相手がダウンタウン松本という権威であるという力がかかる
   一方で世間は、松本ってちょっと小汚いおっさんだよねというイメージを無意識に抱いてる。後輩芸人もむろん同じことを感じるはずだ。が、不文律に拘束され意識の俎上にものぼらない、あるいは口に出せない。風船がパンパンに膨らんでるようなイメージである。そこで有吉が共感性をもってみんなの違和感をすくい上げる。理念性でもって言語化する。針で風船を突くようなイメージである。「松本、お前には不潔感がある」ドカン。
   ここには決して対象となったダウンタウン松本への愛などない。あるのは世間との共感とこれをすくい上げる言語能力だけである。
   もっとも、こうした世間や権威への攻撃とこれに対する共感を武器に人気を獲得した芸人は、なにも有吉だけではない。毒舌の系譜につらなるビートたけし爆笑問題太田なんていうのもこれと似たようなもので、たとえば「赤信号、みんなで渡れば怖くない」のような言葉などは横並びの気質に対する皮肉としてよく効いている。
   では、有吉が他の毒舌芸人と比較しても特異な点はどこにあるのだろうか。それを次に考察していく。つづく。