即物的簡潔主義者の悪文グルーヴ

都内で院生やってる男が吠えます。遠く吠えます。

【毒舌論④】有吉弘行の毒舌芸にみる理念性と共感性の融合

そろそろまとめ入ります。いきなりこんな大長編になるとは。。笑

ビートたけし爆笑問題太田のような従来型の毒舌芸人と、有吉とのいちばんの違いはどこにあるのか?

たとえばビートたけし。彼の芸風は、徹底して世間、ときには観客までも攻撃対象とし、実際フライデー襲撃事件まで起こしている。あるいは爆笑問題太田。彼は政治バラエティを担当して独自の政策をぶち上げて激論を繰り広げ、「おれは空気が読めないんじゃない、あえて空気を読まないんだ」と反発する。

こうした従来型の毒舌芸人の特徴、それは自らの存在を徹底して「世間」の外側に置き、その立ち位置からこれを攻撃している、ということだ。そこには自らの理念性でもって構築した「あるべき世界像」への愚直なまでの志向が垣間見える。

語弊を覚悟していうが、その姿は毒舌論②で書いた「ひきこもり」「キョロ充」という二項対立のうちの、「ひきこもり」に似る。世間に背中を向け、自己の理想に忠実たろうとする姿が、である。爆笑問題太田が学生時代ひとりも友達がいなかった、というエピソードも全く不思議ではない。

たぶん社会不適応を起こしている多くの理念性肥大化人間は、こちらの型だろう。というか彼らのような在り方に憧れる。なぜならそれは彼らが「ありのまま」だからであり、理念性肥大化人間が「ありのまま」であろうとすればひきこもりにならざるをえないからだ。ビートたけしのような従来型毒舌芸人は、その特異なタレント性と時流に乗って成功したに過ぎない。

では有吉はどうか。

「好感度のために笑顔をつくる」「ADに媚びる」といった芸能界の生き残り戦術を赤裸々にさらけ出し、実際に毒を吐いたあとニコニコケタケタ笑う彼の姿は、自分もまた厳然と存在する「世間」に翻弄されるひとつの弱い「個」に過ぎないという強烈な自覚と諦念に裏打ちされているようにみえる。これは間違いなく猿岩石としてアイドル的人気を獲得した後の不遇の時代に培ったものだろう。従来型毒舌芸人が「ひきこもり」的だとすれば、有吉の芸風はいうなれば(開き直りと猛毒を内に抱えた)「キョロ充」的なのである。

どちらのスタイルがいい、とここで言うことはできない。たぶん「かっこいい」のは前者だろう。だが有吉型の、「個」の弱さへの自覚と諦念に裏付けられた毒舌は、仏頂面で外部から世間を非難する以上に効果的に、メディアの虚構性、あるいは製作者・視聴者といったスタジオの外で彼らを規定する「世間」の権力性をグロテスクに浮き彫りにすることに成功しているようにおれには思えるのである。

共感性の観点からこれを語るなら、マスゴミといったネットスラングに代表されるメディア不信をあげられるだろう。視聴者はもはやメディアのつくるお約束、やらせ、偏向報道に、その旧態依然たるシステムに「ウンザリ」しているのである。有吉は不遇の時代において(既存メディアに対する)「ウンザリ」と情緒的に一体化し、これを(外側からではなく、)内部者として言語化することで閉塞するメディアに風穴を開け、いわば裏側から突き上げるような形で「個」を社会に接続させた、といえるだろう。

もっとも、これは芸能界という特殊な世界での成功例であり、現代社会一般にそのままトレースするのは危険である。
すなわち、毒舌を吐かれる側のタレントも、それが番組を盛り上げるためのものであって、仕事として「おいしい」という暗黙の了解があるからこそ、視聴者も安心して笑えるという側面は確実にあるのだ。しかし、これだけ有吉弘行という芸人が人気を獲得し、芸能界の新しい顔となっている以上、そこにはやはり理念性と共感性の新しい融合のかたちとしてみるべきものはあるように思えるのである。

では我々一般人が一般社会で理念性を駆使し、毒舌でもって共感を得るにはどうすべきか。

それを最後に書いてみる。つづく。