即物的簡潔主義者の悪文グルーヴ

都内で院生やってる男が吠えます。遠く吠えます。

道徳警察によるネットリンチの執行は、社会的に正当化されうるか?

おれはモラルやら常識という名の棍棒で殴られるのが嫌いである。相手からおれに対するクレームに「モラル」やら「社会常識」による正当化の匂いを感じた途端に聞く価値なしとして心をクローズする。そんな言説は唾棄すべきゴミである。クレームつけるならテメエに及びうる具体的不利益を説明し、提示せよ、勝手に公共の利益を代表してんじゃねえ、というのが紛れもない本音である。テメエの説得能力の欠落を同調圧力で補充しようとする卑怯者が、道徳警察の正体である。

さて、小山田圭吾が炎上している。
不道徳・不謹慎な言動によりネットが炎上する事件はこれまでもあり、炎上理由には共感できたり、できなかったりはあるものの、基本的にはアンチ道徳警察の矜持として我関せずの態度を貫いてきたが、コトがオリンピックという国際的舞台なこともあってか、はたまた小山田氏の過去の言動が不道徳の領域を軽く超えてきたこともあってか、これまで以上に、議論が白熱し、そして、今回はいつもに増して、道徳警察の勢いが優勢なようだ。そこで、改めて、このモラルというものを理由にしたリンチの執行に、どこまでの正当性があるのか、ということを以下に考察していくことにする。

当然のことだが、社会が存続するためには秩序が必要であり、秩序を維持するためには、秩序違反に対するペナルティが必要となる。ペナルティがなければどうなるか。当然、各自が自分勝手に自己利益を追求することとなり、やがて秩序が崩壊する。だから、秩序に違反する人間がいた場合、きちんとペナルティを課し、全員で秩序を守りましょう。これは誰でもわかるシンプルなお話であり、もはや論理というより、社会的動物としての本能に近い。
ところが、である。そもそも、なにをもって最適な秩序とし、なにをもって守るべき道徳とするのだろうか?あるいは、秩序に反した者に対し、どの程度のペナルティを与えるべきなのだろうか?という問いに直面した途端、事態は唐突に複雑化する。
そこに明確かつ一律の答えがあるはずもない。各々の道徳観や処罰感情に従って違反者を処罰化した結果、どうなるか。もっとも苛烈な処罰感情を持つのは当然、直接の被害者であり、被害者感情に共鳴した大衆により、処罰は過激化の一途へ向かう。秩序や処罰に対する明確なルールがないのだから、十分な検証もなく無実の者が罪を着せられたり、秩序維持の名を借りた報復合戦が発生したり、軽い過失に対して過剰な処罰がなされることになる。人々は萎縮し、猜疑心に苛まれ、恐怖に支配される。秩序維持に熱心な「正義の者」が、過剰な処罰を声高に叫び、秩序を破壊する。
これを避けるために生まれたのが、罪と罰についてのルールを明確に言語化し、事実認定とルールの解釈適用の権限を国家に委ね、国家がこれを濫用しないよう憲法でコントロールする社会、だ(罪刑法定主義)。

コンニチの社会はこうやって歴史的に様々な血を流し、試行錯誤の果てに出来上がってるわけである。

なので、現に裁判中の暴走老人こと飯塚幸三、性格の悪い(演出のなされた)芸能人こと木村花、自粛要請を破って飲み会に参加したYouTuberことえびすじゃっぷ、不倫発覚した好感度タレントこと渡部?に対し、正義のために、我々が制裁を加えてやる!とリンチの正当性を叫ぶことが端的に間違いであることは、歴史と現代社会の制度によりとっくに証明されており、もはや議論の余地がない。もう一度いうが、とっくに議論のフェーズを終えており、正否を争う余地が全然無い。鼻クソほじるレベルのつまんねえ議論である。
つまんねえ議論ではある、が、しかし、こうした社会制度を確立するまでに長い歴史を要したのも事実なわけで、その制度理念を学習する脳ミソがなければ、もちろん、秩序に違反した者を秩序維持のために処罰せよ、という原始的な感覚に支配されるのはごくごく自然な現象である。
道徳警察たち本人はもしかすると、社会意識の高いオトナとして、自分勝手なコドモを叱っている感覚なのかもしれないが、こちらとしては棍棒持った原始人が街をウロウロしててコワイなあ、というのが率直な感想であり、この原始人からどう自己防衛するのが個人としての最適戦略なんだろう、と考えるのが思考の方向として最も合理的である。

さて、小山田圭吾の炎上についてである(本日二度目)。小山田圭吾についてはコトはそう単純ではない。小山田氏が行った行為が、(仮に彼の自白が真実であれば、)議論の余地なく明確に暴行・傷害という違法行為だからである。
何故なのかは全くわからないのだが、学校内で発生した暴行、脅迫、恐喝、器物損壊事件は何故か矮小化され、イジメ、カツアゲという独自用語に変換されるが、殴り、金をせびり、モノを隠したり壊したりすればそれは紛れもない犯罪である。教室内で自治的に解決される問題ではなく、司法によって処罰され、賠償金を払い、責任を取らせるべき行為であり、小山田氏の過去の傷害行為が正当なプロセスによって制裁されなかったのは、社会制度の機能不全に他ならない。
雑誌当時のカルチャーとか、数十年の間に真摯な謝罪が行われなかったとかナントカ、そんなことは、この問題に比べれば、マジで、クソほどどうでもいい。
なぜ、学校内での犯罪行為は隠蔽され、治外法権のように扱われるのか、そして、そのような現状があるとして、法の執行の不備・社会の機能不全を補充するためにリンチを執行することは、正当化されるのか?

問題はまさにここである。

ここに関して、おれの中でまだ明確な回答はないが、ぶっちゃけた話、法の不備は小山田氏の責任ではなく、今更になって(通常なら時効が成立する今になって)責任の追及を受けるのはおかしいようにも思われる(また、悪ぶってただけで、そんな行為はしてないんじゃないか、、という可能性も一部残る)。
が、こと今回の件に関しては、私刑による機能不全の補充は、条件付きで、(結論的には、偶然、)許容される範囲内ではないか、とおれは思っている。


法は、当たり前だが、万能ではない。万能ではないどころか、不備が散見され、社会情勢に応じた柔軟な変更が苦手であり、解釈でその柔軟さを補うにも限界がある。その不備ゆえにペナルティを免れた人間に対し、一定の限度で法の外で私刑を与えることは、法の明白な機能不全を是正する契機や問題提起を与えるという限りにおいて、許容されるのではないか。
しかも、彼に与えられたペナルティは、オリンピックという公的な舞台に立つことを辞退することだけであり、いわば、現状から前に進もうとするのを阻まれただけである。
今後の音楽配信を停止されたり、ライブ活動の場を剥奪されたわけではなく、今後も音楽活動自体は継続できるのだから、過去の犯罪行為の違法性レベルに比して、過剰なペナルティが課されたとまではいえない、というのがおれの道徳的価値判断である。

もっとも、おれは道徳警察的な人間を全く信用していないので、これによってキャンセルカルチャー的な空気が一層促進されることをめちゃくちゃ警戒している。
まさか音楽活動も自粛しろとか言い出さねえだろうなとは思っており、そうなれば(心の中で)全力で抵抗する。
コーネリアスとか、今回の件で久々に名前聞いてYou Tubeで検索したけど、音楽はまあ、天才のソレですよ。
ま、そういうわけで、今回限りは、パラリンピック辞任という文脈限り、アンチ道徳警察のおれも取締を許容するしかねえかってことですね。ケッ

 

 

【教育論②】高学歴は「頭がいい」という事実

 

と、いうわけで教育論第二弾、といいたいところなのだが時間が経ちすぎて何書きたかったかだいぶ忘れた(どーん

 

 

いやゆとり教育の話である。ペーパーテスト的学力と社会的人格形成との関係について、おれの個人的な見解をいわせてもらえば学力テストが万能とはいわないが批判するならせめて対案を示せよってなところである。まさか客観的指標も持たず、印象だけで有能無能を決するつもりなんですかね?

 

ゆとり教育が失敗した原因だって結局は学力テストにかわる新たな能力指標を提示できなかったというその一点につきるだろう。

豊かな人間性とやらのご立派な理念を数値化できない時点で、ペーパーテスト的学力を有効な指標とみなす従来の人々から学力低下につき批判され、それになんら説得力ある反論を示せないのはいわば当然の帰結なのであった。

 

いまのところ、ペーパーテスト的学力は、その知識自体に意味があるわけでなくて、一定の時間内で一定の点数を取るための計画性、論理的思考能力、処理スピードなどを図る指標として有用である、みたいな反論がなされることが多いように思う。

ホントか?wと思わないでもないし、知識自体に意味があるわけではなく〜というところに逃げを感じるが、その点については後述する。

 

要はここで言いたいのは、代替案がないならペーパーテストをその指標にして重用するしかなかろ、というごくごくふつうの話だ。

学業優秀だが仕事はトンとできない、あるいは逆に学歴はないが有能、という人が一定数いるのであれば別に雇用市場の流動性を高めてミスマッチの悲劇を減らせばいい話で、だから授業時間を減らして豊かな人間性を育てましょう、どんな仕事にも対応できるスーパーマンをつくりましょう、というのはピントがズレてる上にどんだけ教育に過剰な期待寄せてんスカwと思うのである。

 

おれは教育学について専門的に学んだ人間ではないのであまり偉そうには言えないけれど、小学校から大学まで16年間(!)教育サービスを受ける側だった者の実感として、モラルやらコミュニケーションといった数値化困難な人間的価値について、教師や道徳の教科書から学んだことは一度もない。友だち同士での衝突やらなんやらで感覚的に身につけただけだ。それは他の連中も、おれより上の世代もみんなそうだったんじゃないかと思う。それをなんで今さら、自分たちオトナは学校教育によって子どもの人間的価値を恣意的に向上させられると思うのか?

 

 

いや、まあアイデンティティが形成される十代前半までは、その人格に学校教育が一定の影響力を及ぼしうるかもしれないが。

しかし仮にそうだとしても、来るべき理想社会像を夢想してそれを無知な子どもたちに叩き込んだところで、既存の社会と教育現場を乖離させるだけで有害無益、いざ生徒たちが実社会に出たときにいつまでも学生気分でいるな、社会は厳しいんだぞとかいう社畜御用達の言葉を降りかけられるだけなんじゃないのとおもうんである。

個性重視とかのたまって金子みすずを朗読させるのも結構だがみんな違ってみんないいけど需要と供給のバランスには重々お気を付けくださいくらい言ってやったらどうなのかね。

 

こういう言説の背景にはきっと教育による理想的人間の形成→理想的社会の実現!という仮想のプロセスがあるように思うのだが、これはもうまるっきり順番が逆で、教育現場なんて既存の社会に従属してこれに適合的な人間を生む機能としてしかそもそも期待されていない。

 

挑戦が大事です、と教育したところでチャレンジした後の失敗をフォローする制度が既存社会になければ敗残者を生むだけだろう。個性が大切です、といったところで既存社会の側に多様な価値観を受け入れる土壌がなければ社会不適合者が量産されるだけだろう。学歴重視の姿勢にいまだ変化がない既存社会の在り方を知る保護者たちが、削減された授業時間をお受験塾にあてて学力格差が広がった、というのもその現れにすぎないように思う。

 

じゃ、結局のとこ、教育はどうあるべきなのだろうか?

答えは至極簡単で、教育は、われわれオトナがいま運営してる社会とはこういうものです、とその知識・情報を子どもたちに徹底的に提供すべき役割を担うべきだろう。

無難にサラリーマンを目指すのもよし、起業したり芸能界を目指して一攫千金を狙うのもいいがどんなリスクを伴うのか、といった「仕事」に関する情報、あるいは普通に生きていても生じる人生のリスクなどなど。こういった諸々のリアルな情報を受け取った上で子どもたちがどういった判断をするか、というのはそれこそ自主性に委ねるしかない。

 

教師は社会人経験を積むべし、みたいな意見はそこそこ根強いみたいだが、これは別に社会人が教育者にふさわしい人格者だから、ということではなくて、端的に、既存社会の在り方について実感的な知識・情報を持っているから、という点によるだろう。おれもこの意見については賛成なのでした。

 

学力テストの科目についても同様のことがいえる。教育問題について議論が起きるときはだいたい学力か/人間性か、みたいな二項対立が生じるだけで科目内容の是非についてはあまり触れられないように感じるのだが、もっと実践的な内容を教えるようにカリキュラムを変えたほうがいい。

 

歴史なんて極端な話、戦中〜戦後からのを深く学ぶほうが大切だろうし、英語もグラマーに時間かけるよりリスニングとスピーキングに重点を置くべきで、他にも民法憲法の基礎の基礎部分、現代の企業社会がどう動いているかという経済的知識、簿記会計の知識を叩き込むべきで、その知識の浸透具合によって優劣をつけるべきだ。今学んでいることの先に実社会があるのだ、という感覚は、勉学への意欲も、進路選択に関する判断の精度も高めるだろうし、学校のクラスにある独特の閉鎖的な雰囲気をも打ち破るんじゃないか、とおれは勝手に想像している。

 

と、まあ、これも一種の理想論である。

おれと同じような教育観をもつ人間は結構いるだろうが現実に教育制度がかわるにはとうぶん時間がかかるだろう。

いつまでも学生気分でいるんじゃない、社会は厳しいんだぞ、というお決まりのフレーズを言われたときに教育が/社会が悪いんだと反論するのはナンセンスで、自分が(なんらかの原因で)社会不適合であると気付きながら、社会不適合者であり続けた究極の責任はその本人が負うしかないだろう。

だから教育なんぞに期待せず、既存の社会制度がどうなっているかを自分の目で見極めることである。就活でも結局は学歴が優先され、そのあとにコミュ力とやらが加点要素として加わるに過ぎないという現状を把握したなら、学校の勉強がクソでもドライに割り切ってその点取りゲームに参加するのが「賢い」だろう。

多少おーげさかつ捻くれたな言い方になるかもしれないが、社会制度の在り方をドライに捉えた上で、目的に向けて割り切った努力ができる、という意味でやはり学歴は大事なんじゃないかね。

というわけで、特定の分野に向けた特別な熱意や才能がない限り、とりあえずは黙って勉強しとけば、という世の教育ママと同じ意見に落ち着くおれなのであった。おしまい。

 

勉強がしたくてたまらなくなる本

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学歴無用論 (朝日文庫)

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【教育論①】高学歴は「頭がいい」という事実

挑発的タイトルですがふつうなことしかいいません。

頭がいい、とはなんだろうか?
答えは簡単で、文字通り「良い」「頭」を持っているということだろう。これをもう少し噛み砕いて言えば、その領域において最善の結果を出しうる脳みそを持っているということになるとおもう。

この、その領域において、という留保が大切だ。つまり「頭がいい」は絶対的な概念ではない。商品の素晴らしさを効果的に説明しお客さんを魅了する営業マンは、営業という分野においてとっても「良い」「頭」を持っているだろう。多くの人々を深く感動させる詩をかける人は芸術分野において「良い」「頭」を持ってるに違いない。同様に、学校の成績が優秀な人々は学業の分野において「良い」「頭」を持っている。
ゆえに「高学歴」は(学業の分野において)「頭がいい」。
ちがいますかね?

単なる言葉遊びみたいになってしまいましたが。

高学歴だからって頭がいいとは限らない!!という言説に関しては、個人的にはもういいからうるせえよってのが素直なところである。
おれは東大とかじゃないがまぁ世間的にはイイとされる大学を出てて、友人にもそういうイイ大学→有名企業に就職した奴が多いわけだが、パッパやマッマやセンセのいう通りたくさん勉強したからボクはエライんだなんてイマドキ思ってる愚鈍な人間なんてほとんどいなかったし、たまにそういう気配のある奴がいても大抵次のステップでこけそうになって血反吐吐くように苦悩してるのでご安心?ください、と言いたいのである。

こういう言葉が盛んに叫ばれる背景には、やはり「高学歴」が(絶対的な意味で)「頭がいい」と思われていた時代があったのだろう。学校という場ではペーパーテストによる学力評価が大きな割合を占めるところ、学校ってのはものすごく閉鎖的なムラ社会だから、それによって学業優秀=社会全体で通用する絶対的な「頭の良さ」という誤解が発生したのかしらね。
学業に限らず絶対的な「頭の良さ」、つまりいかなる領域でも最善の結果を生み出せるスーパーマンなんているわけなくて、それはコミュ力強者とされるリア充だって別に変わらないんじゃないのとおれは思うのだが、どーも社会とか世間は適材適所というのを認めたがらず、「頭の良さ」をあらわす絶対的指標がほしいらしい。で、包括しようしすぎた挙句に人間力とかいいだす始末である。 なんだよ人間力ってw これは「人間として真っ当に生きるには人間として真っ当に生きる力が必要です」と言ってるのと同じで、つまりは何も言ってない。

さて、そんなわけで昨今いろんな方面から問題点が指摘される学歴社会であるが、典型的な学歴批判といえばこんなところだろう。

・学力テストはしょせん知識の詰め込みにすぎず、正解のある問題だ。だから自分の頭でモノを考える力がついていない。しかし、社会に出たら問題も答えも自力で導き、解決せねばならない。よって学力テストの優秀さに意味はない。

・学力テストの対策には膨大な時間がかかる。青春期の貴重な時間を知識の詰め込みに費やせば、他の人々とのコミュニケーションが疎かになる。ところが、社会というのは他人とのコミュニケーションで成り立っている。そこで勉強ばかりしてきたガリ勉根暗は役に立たない。よって学力テストの優秀さに意味はない。

まあツッコミだせばキリはないわけだが、これらの主張にも一面の真実は含まれているだろう。試験対策特有の細かい知識の詰め方はほんとしょーもないなと思わないでもないし、そういうのに時間費やすくらいならもっと有用な経験を積んだほうが豊かな人生を送れたんじゃないかとおれ自身思うところは多分にあるのだ。

そもそも今のゆとり教育というのはこうした知識詰め込み型教育に対する反省を出発点にしたものだった。と、いっても企業社会の側が学歴偏重の採用基準を全然変えないので、結局そういうギャップを読み取った富裕層のママたちがお受験塾に殺到して学力格差が広がっただけらしいのだが、いまだに続くゆとり教育批判と学歴批判を並べてみると、この「ペーパーテスト的学力」と「社会人としての人格形成」との間に横たわるキョリ感について、今だに社会的なコンセンサスが形成されてないんだなと強く感じさせられる。

だってそうでしょう。ゆとり世代は主体性がない、と批判され、学力低下が問題視されてるが、いやいやいや、そもそもゆとり教育制度を採用して授業時間を減らした時点で(ペーパーテスト的な意味での)学力低下は想定済みのハズだし、そこに価値を見出すのやめたんじゃなかったのかね。さらに言ってしまえば、ゆとり教育を受けた若者には社会人としての適性がない、という批判をしてしまうと、ペーパーテスト的学力と社会的人格形成に密接な関連性を見出す旧時代的学歴主義と同んなじ発想をしちゃうことになるんだけど。
結局どっちなんだい?ほんとにペーパーテスト的学力が社会人に不要なら、学力低下で騒ぐ必要もないハズだし、若者の素行の悪さの原因をゆとり教育に求めるのはおかしいでしょ

と、いうわけで、このペーパーテスト的学力と社会人としての人格形成との関係性を、今、どう捉えるべきなのか、そして教育はどうあるべきなのかという点について、(社会人経験のない、たぶん社会人として相当クズの部類に入るであろう)おれが次回語るのであった。ちゃんちゃん。

 

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【ニッポンのサヨク論②】人権屋が右傾化を促進する

いきなりすこし硬い話に入る。

といっても別に高校の公民で習う程度の話だが、人間は無秩序の状態で自由にあるがままに振る舞えば互いに衝突し、戦い、やがて強い者が弱い者を支配する世界を生み出してしまう。自由を最優先すると自由を喪失するのだ。

 

これを回避するためには自由=権利が衝突した場合に公平な解決を図るルールが必要となる。ルールにはみんなが納得するような正統性が必要になるだろう。そこでみんなが選んだ代表者たちが話し合ってルールをつくり、これを「みんなのルール」として共有する。この代表者たちにより構成されるのが「国家権力」だ。

ところが権力は腐敗する。権力を持った代表者たちはやがて自分たちに都合のいいルールをつくり、それ以外の人々の自由=権利を不当に制約し出すだろう。そこでこうした横暴から身を守るため、国家をより上位の法で拘束することにした。これが「憲法」だ。

と、まあこんなふうに考えていくと結局これはバランスの問題に帰着するわけで、統治機構に力を持たせすぎず、国民の自由=権利に委ねすぎず双方バランスよく調和することではじめて各人が自由にふるまい生きてゆける世界がたち現る。という「理想」である。

たとえるならそれは右と左で綱引きしているようなもので、この両者の力がほどよく釣り合うのが理想形だ。だからおれは権力批判自体を否定しない。当然である。とりわけ日本に関しては、こういう権力監視的な役割は重要だろう。

というのも、上記のような立憲民主主義的な社会システムは欧米人が文字通り血を流して創り上げてきたものである一方、日本はこれを単に知識人たちによって輸入したにすぎないからだ。

おれは正直あんまり日本人は云々〜、日本は云々〜という物言いが好きではないのだが、これは歴史的な経緯からみてそうだろう。つまり立憲民主主義がもつ思想の根本が一般的なレベルにまで十分に浸透していない、ようにみえるのである。
だからどうしても愛国心=お上を肯定すること、となってしまう。

これはいわゆるネトウヨをみてても顕著なわけだが、安倍政権への批判をすぐに反日として捉える。
政府なんてただ共同体の運営をその手腕に期待して依頼されてる人びとに過ぎないわけで、そういう意味では会社とその社長との関係に似る。愛社精神と社長崇拝が完全合致してるなんてどこぞのワ⚪︎ミだよって感じだが、たぶんそのへんのことがあんまピンときてないのである。

こういう傾向のある社会で人権を守り権力の行き過ぎを監視するには、より精密で説得力のある批判が必要となるだろう。
んで話をサヨク人権屋に戻す。なんていうかもうアレである。
憲法12条朗読や9条をノーベル賞に、なんてのがその顕著な例だが、武器として人権概念を駆使するどころかもはやただの言霊信仰みたいになってるのだ。9条を改正すれば翌日には爆弾が降りそそぎ、表現の自由を規制する法案が通れば公安警察にぬっ殺される社会が到来するとでも思ってる。あるいは彼らはなんか、憲法黄門様の印籠かなんかと勘違いしてるんじゃないのんか。それにひれ伏さなければすぐに軍国主義だ、独裁だとわめき出す。つまりはこういうことだ。

サヨク「この人権が目に入ら、、、ない!?ぐ、軍国主義の足音が聞こえる!!」

人権はべつにふつうに制約される。訴訟の場で人権が問題となるときは、

・その権利が憲法上保障されてるのか

・どのくらい強く保障されるのか/

・対立利益はどのくらい重要なのか/

・対立利益確保のためその権利を制約することは手段として適切なの

という争点を通してそれを制約する論理の正当性が緻密に審査される。
逆にいえば人権てのはそれを制約する際に緻密な正当化論理が要求されるほど重要な権利ってことを意味するに過ぎないんであって、それ以上でもそれ以下でもない。

愛と金を求めてふつうに生きるひとびとがこれを知らないのはべつにしゃーないだろう。でも自由だ権利だといってそういう活動をライフワークにしてる連中がこの程度の知識なく騒いでるのは呆れを越してもはや意味がよくわからない。

さらにいえばこういう粗雑な権力批判はむしろ彼らの意図と真逆の方向に進む可能性も孕むだろう。つまり人権と安易に叫びすぎてその価値が希薄化する。あるいは特に右でも左でもない人びとに憲法自体の価値が疑われる。犯罪者に人権はない、という物言いも、結局は人権を「黄門様の印籠」的に捉えた上でこれを剥奪しろという主張に過ぎず、問題の本質をまるで捉えてない。

これから日本がどういう方向に進むのか、おれは全然わからないし自分の人生に必死で日本の未来を憂う崇高な理念なんぞ持ち合わせてないが、ほんとに日本国の右傾化を憂うなら、ほんとに危険なときにここぞとばかりにピンポイントに批判しないと、オオカミ少年みたいになっちゃうよ。てかもうなってるんじゃないですかね。

自分たちの主張の通らなさを安倍ブラック政権とこれに洗脳される愚民たちのせいにして思考停止、巨悪と戦う自分たちに酔いしれるのは勝手だが、権力監視を本気でやりたいんならもっと真剣に内省したほうがいいとおもう。人権について、国家についてぜんぜん知らないふつうの人びとでも、崇高な理念の裏側に潜む腐敗した自意識の存在にはとてもとても敏感なのだから。

 

 

憲法主義:条文には書かれていない本質

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【ニッポンのサヨク論①】人権屋が右傾化を促進する

 

とまあ随分と政治的なタイトルをつけてみたわけだが。

おれは政治にぜんぜん興味がない。
人間関係の力学、みたいな広い意味での政治には関心あるもののいわゆる「政治」、国会議事堂のなかで行われている法案と政策決定にはトンと興味が湧かない、どころか政治ってもしやよっぽど徳の高い人間以外は目立ちたがり暇人疎外された人しか関わりたがらないんじゃないのとすら思っている次第である。

そこそこコミュニティに馴染んでて、日常を忙しく過ごし、有名になりたいみたいな強烈な承認欲求を持たない(要はフツーの)人間が政治を語るのってあんま想像できない。特に若者ね。人生は35までにだいたい決まるなんてのはよく聞くが、これはたぶん仕事や家庭がだいたいこのへんで安定しはじめるということだろう。

早い話がそういう一般的な成功観、幸福観からすれば仮に今自分の人生の見通しが暗くても政治による社会の変化に期待するのはあまりにも遠回りということであろう。

これはおれがそう考えてる、というだけではなくておれと同世代の連中みんなそんな雰囲気が漂っている。

 要するにいわゆる「政治」を国家という共同体と個人の関係性の問題として捉えるなら、自分の人生を自分らしく生きるための最低限度の基盤となる権利(平等、表現、経済活動など、いわゆる人権というやつだ)が国家によって不当に制約されているという実感が持てなければ、関心はその先、つまり最低限の生存基盤に立った上でどう豊かに、より幸福に生きるかというところに向かう。典型的な答えはだ。

 

愛と金のなさを社会のせいにするのは考え方としていかにもナンセンスで、自分の人生に不安を感じる若者は、(学生運動やデモなど)社会に牙を剥くのではなく、自分の内面に目を向けて愛と金を手に入れられるような人に生まれ変わろうとする。

で、自己啓発本を読む。ボランティアと海外経験とリーダーシップを懸命に絞り出してアピールする。意識高い系になる。そこにあるのは「叫んだって社会は変わらない」という諦念と「わざわざ叫ぶほどの国家に対する不満はない」という薄ぼんやりした感情だ。

(なお、日本人は云々、、、という「世間」の在り方への不満はたびたび耳にするが、「世間」は「国家」と異なり制度としての明確なカタチを持っていない不定形なモノだから、これに対する不満の叫びはますます不毛な色合いを帯びる。たとえるなら虫の大群にパンチやキックを繰り出すようなもので、ほとんどシャドーボクシングと変わらないことになる)

と、まるで現代の若者の代表であるかのように語ってしまったわけですが、平均値からはだいぶズレてるおれはかつて大学時代反権力、反骨精神みたいなもんに憧れていた。そういう活動に従事していたとかではなくほんとに漠然とした志向みたいなものだ。それでそういう集会に一度だけ参加した。詳しい内容は避けるが、とある社会的権力者がとあるジャーナリストの表現の自由を不当に制約している旨訴えるものだった。
主張の内容自体はごく全う、アメリカではとっくにそういった不当な行為に対する規制がなされてるのに日本ではその法整備が遅れているというもので、共感を覚えたから参加した。どんなもんだろ、ということで友人を誘っていったのだった。

いやあ。ドン引きしたよね。何がって、それを支援しようと集まった市民団体?ふだん何やってるのかもよくわからんいい歳したおっさんおばさんたちに、だ。
唐突に憲法12条を大声で読み上げる。刑事訴訟法上の告発の条文を憲法に記載すべし、とのたまい⚪︎⚪︎を告発しましょう!おお!なんてやってる。告発の条文探す前に刑法の何条に該当すんのか説明せえよ。なんなんだこれは。文化祭か?

ああ、こいつら反権力やってる自分らに酔って脳内で巨悪を作り上げ、それと戦うヒーローになりたいだけで、べつに勉強する気とかはないんだろうな、とわかってさあっと冷めた。その脳内ヴォルデモートと一生魔法の国で戦いを繰り広げてて下さいな。独りよがりで軟弱な君らの権力批判が現実を動かすことは永遠にないでしょう。

まあ一部のアホを取り上げて反体制的な思想を持つ人々をまとめて斬るのは公平ではないだろう。しかし、ですね。ネットでもよく取り上げて叩かれてるが、もうなんか全体的にほんとにひどいのだこれが笑。少しかじった程度のおれが呆れかえるくらいにはひどい。

どうひどいのか。というのは長くなるので次回語る。

 

 

優しいサヨクのための嬉遊曲 (新潮文庫)

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【毒舌論⑤】毒舌的コミュニケーションの作法

ようやく本題。

昨今、有吉をはじめとしてマツコデラックス坂上忍小藪千豊など芸人の枠を超えて毒舌タレントが大流行していて、その理由はといえば端的にいって視聴者がそれを求めてるからということになるんだろうが、そうして毒舌タレントが人気を博すと当然一般人の側でも真似する人間がでてくる。テレビの影響力というのはまだまだ強いのである。

で、そうした真似っこたちはどうなのかというと、これがもうすこぶる評判が悪い。自称毒舌にロクなやつがいない、なんていう言われようである。

まあそんなのはある意味当然で、前回も書いたが、あれはテレビ用のプロレスなんであってそういうお約束もセンスもない素人が安易に手を出しちゃいけないシロモノなのだ。

が、そうはいっても、である。毒、吐きたいじゃない? 言いたいこといって、気持ちよくなりたいじゃない? それで笑いまでとれちゃったら、これ最高じゃない? とおれなんかは思うわけだが、それはたぶんおれだけじゃないはずだ。毒舌タレントたちの人気は、自分もああいう風に生きれたら、という憧れの反映でもあるだろう。

そこで毒舌を笑いにつなげるために気をつけるべきポイントを以下、列挙する。これはお笑いレクチャーではない。毒を吐くときの最低限のマナーである。



①周囲の反応を事前に確認せよ。

笑いは文脈に依存する。いつなんどき誰にとっても面白い発言など存在しない。ましてや毒舌なんて、散々書いてきたようにその毒が含む批判、不満に対する共感がなければ絶対に打っても響かない。毒の対象となるモノへの不満、違和感を小出しにし、それが全体に共有されている、というのを察知してその瞬間、その違和感の正体を簡潔な言葉でえぐるのである。

②人を傷つける言葉をいってはならない、という倫理規範に強烈に直面せよ。

本当は言うべきじゃないけど、さすがにこれは言わせてくれ、という葛藤を経て吐かれた毒舌には爆笑と共感を生むだけの強度が備わる。
自称毒舌の人間がすこぶるつまらないだけでなく不快なのはおそらくこの点に欠けるのが原因で、つまり毒舌を自称しはじめた途端に「人を傷つける発言をしてはならない」という倫理意識は消滅し、言いたいことを言う快楽に溺れ、自己検閲がきかなくなり、単なるネガティブ垂れ流しになる。

③バランス感覚を磨け。

これは有吉自身がいってるように、彼の人気のひとつはそのベビーフェイスっぽい可愛らしさにある。40になるおっさんを可愛いというのもどうかと思うが、たしかに丸顔で可愛らしい顔をしてる。毒舌のあとにあの顔でニコニコ、ケタケタ笑うことでバランスをとり、本当の悪意はないですよ、とアピールするというわけだ。
まあバランスの取り方というのはほんとにいろいろあって、たとえば自虐も交えるとか、時間差でフォローする、別のポイントを褒めるとかでもいいだろう。要は攻める一方、優位に立つ一方になりすぎないことである。
一番大切なのは、難しいが、表現内容と表現方法でバランスをとることだ。つまり言ってる内容がそこまでキツくなければ、言い方は過激でもいいが、内容が過激なときは言い方をマイルドに変える。過激なことを過激に口走れば引かれるし、マイルドなことをマイルドにいっても毒舌として成立しない。逆にこのギャップが大きいと、確実に笑いは起きます。テレビだとあんまこういうやり方見かけないけどね。

④言語的センスを磨け。

これはまあ言わずもがなか。みんなが(実は)思ってること、あるいは正論ぽいことを的確かつ簡潔に表現する語彙力がなければ笑いとして成立しない。バカ、クソ、カス、みたいなそれ単体で罵倒できる言葉はできるだけ避け、他の言葉を尽くして表現したほうが無難である。こちらの言ってることが圧倒的に正しい、という空気感が高まってから初めて、バーカ、と最後にトドメを刺すくらいの感覚でいくといいとおもう。

 

まあこんなもんか。こんなことをぐだぐだ書いてどこまで意義があるのか我ながらよくわからないが、真面目な話、世の中でコミュ障、ぼっち、あるいは生きづらさを抱えてる人々、まあおれもそのキライがあるわけだけど、そういう彼らの生づらさの正体のほとんどは、言いたいことが言えていない、自分の本音を表現できていないことに由来すると思っている。これは本人の対人能力や表現力不足だけによるものではなく、むしろその本音部分、感性がその場の空気に適合していない,あるいはそう思い込んでいることが原因であることも珍しくないのではないか。

日本社会はホンネとタテマエが大切で、タテマエを使いこなせて初めて一人前のオトナだ、みたいなことをのたまう奴は少なくないが、そういう発想が社会的コミュニケーションを無駄に複雑かつ奇怪でツマランものにしてる気がおれにはしてならないのだ。

もっとコミュニケーションはいいたいことをいう、そういうシンプルなものでいいし、それでも社会はぜんぜんで回っていくんじゃないのかね?
結局、そうした人間は本音が接続される社会的な場を探す努力、あるいは本音を適切にコミュニケートする努力を怠った怠け者にすぎないんじゃないの、という。

程度問題はあれ、世間が要求するタテマエ、耳に心地のいい言葉と本音が完全に一致する人間はいないだろう両者が一致しないときに本音を封殺して生きる生き方はいかにも苦しいし、おれは、そういう社会化されきらない「個」みたいなものこそ面白く、逆説的だが社会的にも価値あるものだと思うのだ。

だから、本音をさらけ出せばいい。その本音が持つトゲを笑いでもって中和する、というのは、ひとつのコミュニケーションの方法だろう。

というわけで、おれが言いたかったのは結局こういうことである。

コミュ障たちよ、ひきこもるな。迎合するな。センスとバランスを強烈に自覚しつつ、世間の内側で違和感を表明せよ。

まあおれも実践しきれてないけどね。自戒を込めて。

 

 

オレは絶対性格悪くない!

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嫌われない毒舌のすすめ (ベスト新書)

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【毒舌論④】有吉弘行の毒舌芸にみる理念性と共感性の融合

そろそろまとめ入ります。いきなりこんな大長編になるとは。。笑

ビートたけし爆笑問題太田のような従来型の毒舌芸人と、有吉とのいちばんの違いはどこにあるのか?

たとえばビートたけし。彼の芸風は、徹底して世間、ときには観客までも攻撃対象とし、実際フライデー襲撃事件まで起こしている。あるいは爆笑問題太田。彼は政治バラエティを担当して独自の政策をぶち上げて激論を繰り広げ、「おれは空気が読めないんじゃない、あえて空気を読まないんだ」と反発する。

こうした従来型の毒舌芸人の特徴、それは自らの存在を徹底して「世間」の外側に置き、その立ち位置からこれを攻撃している、ということだ。そこには自らの理念性でもって構築した「あるべき世界像」への愚直なまでの志向が垣間見える。

語弊を覚悟していうが、その姿は毒舌論②で書いた「ひきこもり」「キョロ充」という二項対立のうちの、「ひきこもり」に似る。世間に背中を向け、自己の理想に忠実たろうとする姿が、である。爆笑問題太田が学生時代ひとりも友達がいなかった、というエピソードも全く不思議ではない。

たぶん社会不適応を起こしている多くの理念性肥大化人間は、こちらの型だろう。というか彼らのような在り方に憧れる。なぜならそれは彼らが「ありのまま」だからであり、理念性肥大化人間が「ありのまま」であろうとすればひきこもりにならざるをえないからだ。ビートたけしのような従来型毒舌芸人は、その特異なタレント性と時流に乗って成功したに過ぎない。

では有吉はどうか。

「好感度のために笑顔をつくる」「ADに媚びる」といった芸能界の生き残り戦術を赤裸々にさらけ出し、実際に毒を吐いたあとニコニコケタケタ笑う彼の姿は、自分もまた厳然と存在する「世間」に翻弄されるひとつの弱い「個」に過ぎないという強烈な自覚と諦念に裏打ちされているようにみえる。これは間違いなく猿岩石としてアイドル的人気を獲得した後の不遇の時代に培ったものだろう。従来型毒舌芸人が「ひきこもり」的だとすれば、有吉の芸風はいうなれば(開き直りと猛毒を内に抱えた)「キョロ充」的なのである。

どちらのスタイルがいい、とここで言うことはできない。たぶん「かっこいい」のは前者だろう。だが有吉型の、「個」の弱さへの自覚と諦念に裏付けられた毒舌は、仏頂面で外部から世間を非難する以上に効果的に、メディアの虚構性、あるいは製作者・視聴者といったスタジオの外で彼らを規定する「世間」の権力性をグロテスクに浮き彫りにすることに成功しているようにおれには思えるのである。

共感性の観点からこれを語るなら、マスゴミといったネットスラングに代表されるメディア不信をあげられるだろう。視聴者はもはやメディアのつくるお約束、やらせ、偏向報道に、その旧態依然たるシステムに「ウンザリ」しているのである。有吉は不遇の時代において(既存メディアに対する)「ウンザリ」と情緒的に一体化し、これを(外側からではなく、)内部者として言語化することで閉塞するメディアに風穴を開け、いわば裏側から突き上げるような形で「個」を社会に接続させた、といえるだろう。

もっとも、これは芸能界という特殊な世界での成功例であり、現代社会一般にそのままトレースするのは危険である。
すなわち、毒舌を吐かれる側のタレントも、それが番組を盛り上げるためのものであって、仕事として「おいしい」という暗黙の了解があるからこそ、視聴者も安心して笑えるという側面は確実にあるのだ。しかし、これだけ有吉弘行という芸人が人気を獲得し、芸能界の新しい顔となっている以上、そこにはやはり理念性と共感性の新しい融合のかたちとしてみるべきものはあるように思えるのである。

では我々一般人が一般社会で理念性を駆使し、毒舌でもって共感を得るにはどうすべきか。

それを最後に書いてみる。つづく。